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マドリードのプラサ・マヨールの歴史

 

 

マドリード市の中心地プラサ・マヨール(マヨール広場)はいつも大勢の地元人や観光客でいっぱい。スペイン各地に同じ名前の広場がありますがまずはここを思い浮かべる人が大半のはず。広場を取り囲む整合性のとれた歴史的建築物のバルコニーが印象的な場所で、とても古い歴史を持っています。

 

実はその昔、広場として利用され始めた当時は現在のような四方を囲む建物がなく、だだっ広い平地でした。けれどもその平地の利便性の良さから早くも15世紀から広場として人びとが集まる活気ある場所となり、行商人たちが頻繁に訪れて商売に勤しんでいました。そしてかつてはプラサ・デル・アラバール(Paza del Arrabal)と呼ばれていました。Arrabalとは「郊外、町外れ」を意味する言葉です。意外なことに、今より土地の狭かったマドリード市初期の地理において、この広場は郊外に位置していたのです。同時にトレド通りとアトーチャ通りを繋ぐ合流地点となっており、これは現代に至るまで続いています。

 

やがて16世紀、この場所に街の主要市場が設立されてさらに人びとの往来が活発になりました。そして初めて、青空広場にポーチ(柱廊)付の建物が建設され、固定の場所で定期的に商売する人たちが現れました。1561年にスペイン王宮はマドリードに移りましたが、その後まもなくの1580年、時の国王フェリペ2世がこの広場の改修を決定。ルネッサンス期の偉大な建築家フアン・デ・エレーラに広場を囲む優雅な建物の設計をさせました。

 

こうして1590年から広場に建てられ始めたのは、1階部分がポーチとなっている4階建ての建物「Casa de la Panadería」。最上部はアッティカ様式で、側面部の角には塔がつけられ、宿泊施設としてオープン。その名の通り、1階部分はパン屋となっていました。

 

けれども国王たちが待望していたこの建物の建設計画は、財政難や政治的危機などの色々な理由で延期に次ぐ延期。その間にフェリペ2世が1598年に崩御し、フェリペ3世の治世へと代替わりします。1617年に国王は建築家フアン・ゴメス・デ・モーラにこの建設計画を引き継がせ、彼がようやく1619年に建物を完成させました。

 

ところが悲願の美しい建物をすぐに悲劇が襲います。1631年の火災で建物が損傷し、ゴメス・デ・モーラ自身がその修復作業に当たらねばなりませんでした。

 

 

 

 

その後、さらに同じ世紀(1670年)に二度目の火災が発生。この時は建築家トーマス・ロマンが再建を担当。その後100年あまり建物は無事でしたが、1790年に三度目の火災が発生。今度はプラド美術館を設計したフアン・デ・ビジャヌエバの指揮で修復作業が始まりました。この時、彼は5階建てになっていた建物の階を3階建てにまで減らす改築を施しました。

 

19世紀にはプラサ・マヨールの中央に立っているフェリペ3世騎馬像が設置されました。その後も1880年、1921年、1935年……と工事が頻繁に繰り返され、最後の工事は1992年に終わりました。この時は画家カルロス・フランコが、建物のファサードに神話の神々たちの姿を描き込みました。

 

このように首都マドリードには、歴史秘話があちこちにあります。さらに掘り下げてこの街の歴史や文化を覗いてみたい人のために、3月19日(火)に生粋のマドリードっ子、アレハンドロ先生のマドリード自慢話「DE DONDE SOY MADRID」を20:30から開講いたします。オンリースペイン語ですのでスペイン語学習者向けですが、歴史に興味がある、スペイン人の暮らしや面白い言い伝えを聞いてみたい! という方にぜひオススメです!

 

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