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フランシスコ・ザビエルが日本に残した足跡

フランシスコ・ザビエルといえば、イエズス会の宣教師として1549年に鹿児島に上陸し、日本にキリスト教を伝えた人物として有名ですね。

歴史の教科書などのザビエルの写真を思い出す人も多いと思います。

はるか遠いスペイン出身のザビエルはどんな人物で、なぜ日本にやってきたのでしょうか?

 

フランシスコ・ザビエルは1506年ナバラ王国のハビエル城で5人兄弟の末っ子として誕生。当時、ナバラ王国はスペインとフランスとの間の紛争地になっており、戦乱が続く激動の時代でした。

 

19歳でパリ大学に留学。哲学を学んでいましたが、イグナチオ・デ・ロヨラと出会い、聖職者を目指すようになります。そして、ロヨラ、ザビエルを含む7人でイエズス会を創立。世界での宣教活動を始めます。この背景にはヨーロッパでマルティン・ルターがカトリック教会に対する抗議文を書いたことを発端に、プロテスタントが急速に勢力を持ち始めたことがありました。宗教改革の始まりです。

 

カトリックの勢力を維持拡大するため、ポルトガル王ジョアン3世の依頼を受け、イエズス会の他の宣教師とともにザビエルはインドのゴアへ向かいます。ゴアやマラッカなどで活動を続ける中、ザビエルは弥次郎という日本人に出会います。弥次郎から日本の話しを聞いて興味を持ったザビエルらは、弥次郎の導きで鹿児島に上陸。

 

鹿児島では領主の島津貴久に許可を得て布教を開始。その後、キリスト教を迫害する動きが鹿児島で生まれたため、1550年長崎の平戸にポルトガル船が寄港したときに平戸に移住します。そして、さらなる信者の獲得のため、山口を経由して、布教と天皇への謁見のため京都に向かいます。

 

しかし、戦乱で都は荒れ果て、天皇との謁見も叶わず、失意の中、1551年に山口に戻ります。そこで中国地方を支配していた有力な大名の大内義隆から布教の許可を得て、廃寺であった大道寺を拠点として活動を始めます。山口では毎日井戸の近くで説教をしたそうです。

 

ザビエルが山口に滞在したのはわずか半年ほどでしたが、その半年で500人以上もの信者を獲得したそうです。山口での活動が軌道に乗り始めたので、ポルトガル船が豊後(大分)に寄港したのをきっかけに豊後に向かい、活動を始めます。

 

しかし、ゴアの状況を知るためと、日本での布教には日本に影響の強い中国での布教が不可欠と考えたザビエルらは1552年インドのゴアに戻り、そこから中国に向かいます。しかし中国の鎖国政策で入国できず、上川島で入国の機会を待つうちにザビエルは病気のため同年47歳で亡くなりました。

 

ザビエルが山口にいたのは半年ほどでしたが、山口に与えた影響は大きかったようです。

ザビエルの来日(山口での活動)400周年を記念として、1952年に山口サビエル記念聖堂が建てられています。1991年に火事で消失したものの、イエズス会や信者、一般市民の援助を受けて1998年に再建されています。

 

ザビエルらの布教の拠点となった大道寺の跡地には聖サビエル記念公園が作られています。そして毎年11月3日には山口スペインフィエスタが開かれ、ザビエルと大内氏の大きな人形が登場したり、スペインにまつわるイベントや屋台が楽しめるそうです。

 

また、京都に来た際にザビエルらが立ち寄った大阪の堺にもザビエル公園があります。ザビエルらを手厚くもてなしたとされる豪商日比屋了慶の屋敷跡に作られた公園で、公園開設がザビエル来航400年の年だったため、ザビエルの名が着けられたそうです。

 

ザビエルが日本に滞在したのは2年半ほど。その期間に、鹿児島、平戸、山口、京都、山口、大分と移動して布教活動を続けました。その後インドに戻り、すぐに中国での布教へ向かったエネルギーとキリスト教への信仰心には驚くべきものがあります。

 

布教するときは日本語でしていたのでしょうか?それとも、誰かが通訳をしていたのでしょうか?日本という全く違う文化や言葉の国で活動したザビエルはどんなふうに感じていたのでしょうか?興味は尽きません。

 

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