コロンブスの出生には謎が多い。彼の息子ですら、死ぬ間際の1539年7月3日、セビージャ大聖堂へ遺言書を委託するまでその一切を語らなかったという。そして、その遺言書にはこう記してあったそうだ。「出生ジェノバ、西インド洋発見の第一航海提督者クリストバル・コロンの子息」。コロンブスは一体何人で出身はどこなのか。様々な定説がある彼の情報は、どれを見てもイタリアのジェノバ出身とあるが、実はイタリア人である確証もない。コロンブスの出生が不明なのは、自身が慎ましやかな出身であることを包み隠すためであったかもしれないという説もある。
コロンブスは、1492年8月3日の早朝、ウエルバ県のラビダ修道院でのミサに参列した後「サンタ・マリア号」「ピンタ号」「ラ・ニーニャ号」の3隻を従え、パロス・デ・ラ・フロンテーラを出航した。カナリア諸島に立ち寄り船の点検や食料などを調達し、1492年9月6日、ゴメラ島から一途大西洋横断への航海に出発する。そして同年10月12日、バハマ諸島のサン・サルバドール島に辿り着く。当時の人々にとって地球が球体であることは常識だったが、世界の地形や位置などはまだはっきりと把握できていない時代であった為、彼は自分が到達した場所はインドであると最後まで信じ続けていた。バハマが大部分を占める西インド諸島の名前の由来は、コロンブスの本来の目的地から来ているのである。
コロンブスはもともと貧しい家に生まれ、家族は織物を売って生計を立てていた。彼は幼い頃から金銭的にも大変苦労したが、やがて航海士や地図製作者として成功し、更に貴族の娘との結婚を機にますます仕事のキャリアを図っていく。プレゼンテーション能力に長けていたコロンブスは、アジア植民地計画を目的にスペインの貴族から援助を受け、カスティーリャ女王イサベル1世に航海計画を提案、航海決行に至る。そして、初めての航海で辿りついたサン・サルバドールを植民地化した。その後も3回の航海を繰り返すうち、自分が征服した地がインドでないことに気がつくも、ますます征服欲を膨らませて残虐な殺戮を繰り返すのであった。3回目の航海では、スペイン本国でも彼の残虐性が問題視されるようになりスペインへ強制送還、そして地位も財産も全て剥奪される。4度目の航海では、貧素な船しか与えられなかった為に難破、帰国後すぐ病死する。航海家で新大陸発見のイメージからはかけ離れた哀れな最後を迎えるのである。
コロンブスの骨はどこに?
現在、コロンブスの棺はセビージャの大聖堂に収められています。彼の骨は、死去した場所バジャドリードから息子の希望によりセビージャに戻された後ドミニカ共和国のサント・ドミンゴへ移動、後にキューバのハバナへ移され、更に再度セビージャに戻ってきたという説と、1度もスペインから出たことがないという説とがあります。サント・ドミンゴにもコロンブスの棺があることから、真実は誰にもわかりません。